タイ語の力を仕事にしたいと思ったとき、多くの人が辿り着くのが翻訳・通訳です。しかし、言語ができることと翻訳ができることは別の技能です。
翻訳と通訳の違い
翻訳
書き言葉を別言語に置き換える作業で、時間をかけて精度を追求できますが、その分品質への要求水準が高くなります。
通訳
話し言葉を瞬時に変換する作業で、瞬発力と記憶力、そして度胸が求められます。
混同しやすい違い
「タイ語が話せる」だけで通訳になれるわけではなく、通訳技能には別途のトレーニングが必要です。同様に、翻訳にも独自の訳出技法があります。
翻訳の種類
文芸翻訳
小説・詩・エッセイなど、原文の芸術性を損なわずに別言語に移す職人技で、訳者の文体が作品の命運を握ります。タイ文学日本語訳の第一人者として宇戸清治氏(1951年生)が知られています。
実務翻訳
契約書、マニュアル、特許、医療文書などの専門文書で、正確性と業界知識が問われます。
映像翻訳
字幕・吹替え・ナレーションの3種類があり、字幕は1秒4文字、吹替えはリップシンクという制約が加わります。
翻訳スキルを磨く
等価性の考え方
Eugene Nida(1914-2011)は1964年『Toward a Science of Translating』で「形式的等価」と「動的等価」を区別しました。タイ日翻訳では動的等価を優先し、読者の反応が同じになることを目指すのが主流です。
訳し下しと訳し上げ
タイ語は修飾が後置、日本語は前置のため、関係節や修飾句の処理で頻繁に語順を入れ替えます。例えば「ผู้หญิงที่สวมชุดสีแดง」は「赤い服を着た女性」と前置に回します。
敬語と待遇表現
タイ語の人称代名詞は10種類以上あり、話者の立場や聞き手との関係で使い分けます。日本語訳では「です・ます」「である」「俺・僕・私」などで反映させる必要があります。
実務翻訳の分野
法務翻訳
契約書・定款・判決文などで、タイ民商法典(1925年制定)の用語と日本民法・会社法の対応関係を理解していないと致命的な誤訳が生まれます。
医療翻訳
症例報告・治験文書・医療機器マニュアルなど、解剖学用語と薬学用語の正確性が患者の安全に直結します。
特許翻訳
Thailand Department of Intellectual Property(1992年設立)への出願書類は、用語選択が権利範囲を決定するため、1語の誤訳が数千万円の損害になることもあります。
IT・技術翻訳
ソフトウェアローカライゼーション、ユーザーインターフェース翻訳は文字数制限と専門用語の両立が課題です。
通訳の技法
逐次通訳(Consecutive Interpreting)
話者が数文話した後にまとめて訳す方式で、ビジネス商談や講演会で使われます。メモ取り技術が命で、ノート・テイキング記号を自分なりに体系化する必要があります。
同時通訳(Simultaneous Interpreting)
話者と同時に訳す最難関技能で、ブースに入ってヘッドセット越しに作業します。訓練には2-3年を要し、AIIC(国際会議通訳者協会、1953年設立)基準では30分交代が推奨されています。
ウィスパリング通訳
聴衆1-2人の耳元で小声で通訳する方式で、同時通訳の変形です。少人数会議で重宝されます。
リエゾン通訳
少人数の対話で双方向の通訳を行う形式で、商談・医療・司法の現場で使われます。
CATツールの活用
Trados Studio
SDL(現RWS、1992年創業)が開発した翻訳支援ソフトウェアの代表格で、用語集・翻訳メモリ管理機能が強力です。ライセンスは約8万円前後。
MemoQ
Kilgray Translation Technologies(2004年創業、ハンガリー)が開発、直感的なUIでフリーランス翻訳者に人気です。
Google Translator Toolkit(廃止)
2009年開始、2019年12月にサービス終了、現在はGoogle Cloud Translation APIと有償CATツールへの移行が進んでいます。
DeepL Pro
2017年にドイツで創業のDeepL社が2020年からタイ語対応を開始、まだ日本語-タイ語直接翻訳の精度には改善余地がありますが、英語経由で活用する翻訳者が増えています。
翻訳単価の相場
タイ語→日本語
実務翻訳で1ワード6-10円、文芸翻訳は400字詰め原稿用紙1枚3000-5000円、映像翻訳は10分約15000-20000円が相場です。
日本語→タイ語
1文字5-8円、タイ語ネイティブ翻訳者が望ましく、日本人翻訳者は稀少価値があります。
通訳料金
逐次通訳は半日3万円、全日5-8万円、同時通訳は半日5万円、全日8-12万円が目安です。AIIC会員クラスはその2-3倍になります。
プロを目指すステップ
ステップ1 語学力
CU-TFL C1レベル、またはタイ語検定1級相当の実力が最低ラインです。
ステップ2 翻訳講座
フェロー・アカデミー(東京都千代田区、1975年創立)や日本外国語専門学校のタイ語翻訳講座で基礎を学びます。
ステップ3 トライアル合格
翻訳会社のトライアル試験に合格して登録翻訳者になります。アークコミュニケーションズ、サイマル・インターナショナル(1965年創業)などが主要な登録先です。
ステップ4 実績作り
最初の2-3年は単価が低くても数をこなし、専門分野を確立します。5年目以降で安定した収入が見込めます。
通訳学校
ISSインスティテュート
東京都新宿区、1966年創立の通訳翻訳学校で、タイ語コースは不定期開講ですが、同時通訳基礎を学べます。
サイマル・アカデミー
サイマル・インターナショナル系列、1980年創設、英語中心ですがタイ語個別指導コースもあります。
Chulalongkorn University通訳修士課程
1999年にCALS(Chulalongkorn University Academy of Language and Society)内に開設された通訳翻訳専門修士課程で、2年間のカリキュラムです。
翻訳者団体・資格
日本翻訳連盟(JTF)
1981年設立、東京都中央区にあり、翻訳者検定試験や翻訳通信講座を運営しています。JTF会員になると業界情報・案件情報が得られます。
Thailand Translators Association(TIAT)
1991年バンコクで設立、タイ国内のプロ翻訳者団体で、毎年トレーニング・セミナーを開催しています。
翻訳者登録制度(RCCT)
一般社団法人日本翻訳協会が認定する制度で、一定レベル以上の翻訳者を公的に認証します。
機械翻訳との付き合い方
ポストエディット(PE)
機械翻訳の出力を人間が校正する作業で、従来翻訳の半額程度の単価ですが案件数は多く、駆け出し翻訳者の収入源になっています。
機械翻訳の得意分野
定型的なビジネスメール、技術マニュアル、ニュース要約は機械翻訳で8割の精度が出ます。
機械翻訳の苦手分野
文学・広告コピー・文化的ニュアンスの強い文書は依然として人間翻訳者の独壇場です。
まとめ
タイ語翻訳・通訳の世界は狭く、逆にそれがチャンスでもあります。需要は常にあり、供給は限られています。語学力の先にある専門技能を身につければ、一生ものの仕事になります。
補足 独立した翻訳者として生きるには
開業届
日本国内で個人事業主としてスタートする場合、所轄税務署に開業届を提出し、青色申告承認申請も同時に行うと税務上有利です。
見積と請求
翻訳会社案件では定型フォーマットがありますが、直接受注の場合は「ワード単価 × 総ワード数 + 特急料金(必要に応じ) + 消費税」で算出します。
保険と保障
フリーランス協会(2017年設立)の会員保険では、翻訳ミスによる損害賠償保険(最大5000万円)がオプション加入可能です。
補足 私の翻訳一案件
初めて引き受けた案件はタイの中堅企業の社内規定集で、原文約8000字、納期2週間、単価は1文字4円でした。連日の深夜作業でしたが、納品時の達成感は今も忘れられません。最初の案件は誰にとっても特別なものです。
補足 タイ関連の専門分野で強みを作る
仏教翻訳
タイ上座部仏教の経典・法話翻訳は需要が根強く、パーリ語の基礎知識があれば希少価値が増します。世界パーリ聖典協会(PTS、1881年英国設立)発行の校訂本が信頼性の高い底本です。
自動車産業翻訳
タイは東南アジア最大の自動車生産国で、トヨタ・ホンダ・いすゞの現地法人が日系翻訳者の主要クライアントです。技術マニュアルと品質管理文書の案件が安定して発生します。
観光・ホスピタリティ翻訳
タイ国政府観光庁(TAT、1960年設立)の日本向け広報資料、ホテルチェーンの公式サイト翻訳などの案件があります。
補足 最後に伝えたいこと
翻訳・通訳は学び続けなければ錆びる技能です。毎日の読書・音声トレーニング・用語アップデートを惰性ではなく戦略的に続けることが、プロの条件です。そして何より、タイ語と日本語の両方を愛せること。その愛が、機械にはできない訳文を生み出します。
翻訳者・通訳者を目指す皆さんの旅路が、実りあるものになりますように。最初の一歩は、今日の一文から始まります。
一行ずつ積み重ねた訳文が、やがて一冊の本、一場の会議通訳へと繋がっていきます。
応援しています。
あなたが訳した言葉は、誰かの世界を広げる扉になります。
それを忘れずに、歩み続けてください。
翻訳の道で、いつかお会いできる日を楽しみにしています。


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