インドネシア語を学びはじめた方が最初にぶつかる壁のひとつが、ジャカルタで使われる「gue(グエ)」と「lo(ロ)」という一人称・二人称です。
教科書には saya(私)と Anda(あなた)しか載っていないのに、カフェでもテレビでも YouTube でも、みんな gue / lo で話していて「これは別言語か?」と感じる場面が必ず訪れます。
この記事では、ジャカルタ首都圏のベタウィ方言(bahasa Betawi)をルーツとするジャカルタ口語の世界を、私の実体験もまじえて詳しくご紹介します。
ベタウィ方言とは何か
まず、ジャカルタの話し言葉の背骨を形づくっている「ベタウィ方言」について知っておくと、gue と lo の位置づけがぐっとわかりやすくなります。
ベタウィ(Betawi)は17世紀以降、オランダ東インド会社時代のバタヴィア(現ジャカルタ)に集まったジャワ人・スンダ人・マレー人・華人・アラブ人・ポルトガル系混血などが混ざり合って成立した都市コミュニティで、その言葉が bahasa Betawi です。
ジャカルタの北部コタ地区、クマヨラン、クバヨラン・ラマなどが伝統的な拠点で、ベタウィ文化博物館(Museum Kebudayaan Betawi、Setu Babakan、2001年開設)で今も紹介されています。
gue / lo の語源
すでに前の記事でも触れましたが、gue と lo は福建語(閩南語)の「我 goa」「汝 lu」が起源で、18〜19世紀に華人商人からベタウィ人に広まりました。
1950〜70年代に活躍したベタウィの国民的コメディアン、ベンヤミン・スアエブ(Benyamin Sueb、1939年生)の楽曲「Ondel-Ondel」や、伝統コメディ劇 lenong の中で、gue / lo は大衆文化の象徴として定着しました。
さらに1994年放送の国民的ドラマ「Si Doel Anak Sekolahan」(主演ラノ・カルノ、Rano Karno、1960年生)がベタウィ文化を全国に発信し、ジャカルタ以外の若者も gue / lo を使うきっかけになったのです。
人称代名詞の使い分けマトリクス
ジャカルタ口語では、人称代名詞の選び方ひとつで「あなたが私をどう見ているか」が丸わかりになります。
これを間違えると、失礼になるか、逆によそよそしくなるかのどちらかで、会話の空気がぎこちなくなってしまいます。
一人称の選択肢
saya:フォーマル、目上や初対面、ビジネスの場。
aku:恋人・親しい家族・子ども同士、やや感傷的な響き。
gue / gua:友人同士、同世代、ジャカルタ首都圏。gua は gue とほぼ同義だが発音がよりカジュアル。
kita:本来「私たち」だが、マナド・メダンでは「私」としても使われる。
私が初めてジャカルタで仕事した2018年当時、年上の取引先には saya、同世代のデザイナーには aku、同年代のライターには gue と、一日のうちに三度切り替えるのが普通でした。
二人称の選択肢
Anda:フォーマル、広告・公式文書・初対面。
kamu:親しい相手、恋人、少しかわいらしい響き。
lo / lu / elo:友人同士、ジャカルタ首都圏、ベタウィ系。
Bapak / Ibu / Kak / Mas / Mbak / Om / Tante:相手の立場や年齢に合わせた呼称で、これらを使うとぐっと丁寧になる。
特に注意したいのは、ジャカルタの若者同士でも、初対面では「Kak」「Mas」「Mbak」を使い、2〜3回会話を重ねてから lo / gue に切り替えるのが自然な流れだということです。
ベタウィ方言的な文体のクセ
gue と lo だけがベタウィ要素ではありません。
ジャカルタの日常会話には、文末や語彙のあちこちにベタウィ由来のクセがちりばめられています。
-in 接尾辞と a の母音変化
標準語の動詞 -kan / meN-kan が、ベタウィ・ジャカルタ口語では -in に置き換わります。
「perbaiki → benerin(直す)」「menyiapkan → nyiapin(準備する)」「membangunkan → bangunin(起こす)」のように、動詞が軽くなるのが特徴です。
また、語末の e が a になる傾向も強く、「apa → apaan(なんだよ)」「kenapa → kenapaan(なんでさ)」などの変形が生まれます。
「nih」「tuh」「dah」などの文末詞
ベタウィ方言の影響で、ジャカルタ口語の文末詞はにぎやかです。
「Gue udah makan nih」「Liat tuh, bagus banget」「Ya udah dah, gue pulang」のように、ほとんどの文に粒子が付きます。
音声的にも上に下にと上下動するため、ジャカルタの会話はメロディアスで、感情がよく伝わるのです。
ジャカルタ南部(Jaksel)特有の英語混在
2018年頃からネットで話題になったのが、「ジャクセル語(bahasa anak Jaksel)」と呼ばれる英語混在のジャカルタ口語です。
南ジャカルタ(Jakarta Selatan、通称 Jaksel)、特に Senopati、SCBD、Kemang、Pondok Indah あたりの富裕層子弟が話す、英語とインドネシア語を行き来する話し方のことです。
典型例
「Gue literally lagi di cafe di Senopati, which is deket kantor lo」(マジで今セノパティのカフェにいて、あなたのオフィスの近くだよ)
「Basically, gue prefer yang simple aja sih, gak usah fancy」(基本的にシンプルなほうがいい、凝らなくていい)
「Which is menurut gue it’s actually quite problematic」(これって私的にはかなり問題あると思う)
Fore Coffee(2018年創業)、Kopi Kenangan(2017年創業)、%Arabica(2014年京都発、ジャカルタは2019年 Plaza Senayan 出店)など、Jaksel のカフェではこのスタイルが典型的に聞けます。
ジャカルタ口語を安全に練習する方法
gue / lo を使いはじめるのは楽しいですが、私の経験上、最初はネイティブの前でうまく口が回らず、笑われることも少なくありません。
そこで、恥をかかずに練習できる段階的なアプローチをおすすめします。
段階1: リスニング漬け
映画「Ada Apa dengan Cinta?」(2002年、監督ルディ・ソジャルウォ)とその続編「AADC 2」(2016年)は、ジャカルタの高校生・若者の口語を学ぶ教科書のような作品です。
YouTubeチャンネル「Hai Guys Official」(2018年開設、平均登録者数は数百万)では、若者同士のトークがほぼ bahasa gaul で繰り広げられます。
段階2: テキストで使う
italki や Tandem のチャットで、現地の同世代と練習する際に、あえて gue / lo を使ってみます。
相手が Kak や Mbak で返してきたら、自分は saya に戻す判断ができるようになったら上級者です。
段階3: 音声で使う
対面でも、まずは saya から始めて、相手が gue / lo で話してきたら同じトーンに合わせる、という鏡張りの原則を守るのが安全です。
まとめ
ジャカルタ方言の gue / lo は、単なる「友達言葉」ではなく、首都圏400年の歴史を背負った文化的コードでもあります。
その重みを知ったうえで使えると、あなたのインドネシア語は、一気に「ただの学習者」から「ジャカルタの空気を読める人」に変わります。
次回会うインドネシアの友人に、自然なタイミングで gue と返せることを、心から応援しています。
地域ごとの首都圏若者言葉の違い
ひとくちにジャカルタ口語といっても、実はエリアごとに微妙な語彙・抑揚の違いがあります。
私が TransJakarta(2004年開業のBRT)に乗って通勤していた頃、車内で聞こえる会話の「色」がエリアごとに違うのを楽しんでいました。
北ジャカルタ(Kota, Pluit, Ancol)
華人系住民が多いエリアで、福建語や潮州語の語彙が混じることがあります。
「ceng li(道理にかなっている)」「hoki(運がいい)」「cuan(儲け)」はもともと華人ビジネス語でしたが、今はジャカルタ全体に広まっています。
南ジャカルタ(Jaksel)
前述の通り、英語混じりが特徴です。
国際学校(Jakarta Intercultural School、1951年設立)や ACG School Jakarta などに通う子弟の影響で、コードスイッチが生活の一部になっています。
東ジャカルタ・西ジャカルタ
ベタウィ要素が比較的強く残り、「aye(私、saya の変化形)」「ente(あなた、アラビア語 anta 由来)」が年配者のあいだで今も使われます。
モスクの多いエリアでは、イスラム教由来のアラビア語借用語が若者の会話にも自然に混じります。


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