広東語を始めるときに最初に詰まるのは、教材選びではありません。「何を目標にするか」と「何から手をつけるか」の順番です。
この記事は独学の順路を準備段階+4つの段階に分け、各段階で何を身につけ、そのとき当サイトのどの記事を読めばよいかを対応づけたものです。
表記は繁体字で統一し、ローマ字は粤拼(Jyutping)の声調番号つき、カタカナは近似です。カタカナでは書き分けられない音があるので、迷ったら粤拼のほうを見てください。
始める前に決めておく3つのこと
教材を買う前に決めておくと、あとで学習の方向がぶれません。
ここを飛ばすと、手元の本と自分の目標が噛み合っていないことに数か月後に気づく、という事故が起きます。
学ぶのは香港・広州の広東語である
広東語(粤語 jyut6 jyu5)にはいくつもの下位方言があり、広府片・四邑片・高陽片などに分かれます。
日本で単に「広東語」と呼ばれているのは、香港と広州で話される広府片のことです。
同じ粤語でも四邑片の台山話は香港の話者にも通じにくく、日本語の教材もほとんどありません。
この記事は以下すべて広府片、つまり香港・広州の広東語を前提にします。
「話す広東語」と「書く広東語」のどちらを目標にするか
香港の公式な書き言葉は、繁体字で書かれた標準中国語(書面語)です。
話し言葉の広東語とは語彙も語順も違うので、同じ「広東語ができる」でも中身がまるで変わります。
香港の新聞や書類を読みたいなら書面語、人と話したいなら口語が目標になります。
この二層の関係は書く広東語と話す広東語の違いをまとめた記事で詳しく扱っています。
普通話を先にやるべきか、同時でよいか
系統上は広東語も普通話も同じ中国語(シナ語派)の一員ですが、話して通じ合えるほどには近くありません。
「ありがとう」は多謝 do1 ze6(ドーゼー)で謝謝ではなく、「〜ではない」は唔係 m4 hai6(ンハイ)で不是ではありません。
語彙そのものが入れ替わるので、「中国語をやれば広東語も分かる」は成り立ちません。
一方で漢字と語彙の骨格は共通なので、読む力のほうは相当に転用が効きます。
この非対称が、両方に手を出す人にとっての前提になります。
普通話側の学習計画は中国語の勉強法の記事に、講師を探すときの言語の選び分けはitalkiで中国語を習う記事にまとめてあります。
独学の順路|準備段階と4つの段階
広東語の独学は、次の順に積むと手戻りがほとんど出ません。
| 段階 | 到達目標 | そのとき読む記事 |
|---|---|---|
| 第0段階 | 粤拼を見て音が想像でき、繁体字に抵抗がない | 広東語の声調と粤拼 |
| 第1段階 | 6つの声調を聞き分け、入声を止めて言える | 日本語話者のための広東語発音 |
| 第2段階 | 口語字8字と主な文末助詞が読める | 口語字と書面語の記事 |
| 第3段階 | 礼・挨拶・数字・注文が口から出る | 唔該と多謝/挨拶/数字と値段/飲茶の注文 |
| 第4段階 | 実際の香港の音が拾え、道具で足りない分を補える | 香港で耳に入るフレーズ/広東語の翻訳ツール |
第0段階|粤拼と繁体字に慣れる
広東語の最初の壁は、漢字ではなく発音表記のほうです。
粤拼は香港語言学学会が1993年に定めた方式で、音節のうしろに1から6の数字で声調を書きます。
教材によってはイェール式など別の方式を使っていて、同じ音がまったく違う綴りに見えます。
最初に粤拼を選んでおけば、辞書と教材のあいだで綴りを読み替える作業がなくなります。
第1段階|六調と入声を身体に入れる
広東語は「九声六調」と言われますが、9は声調の分類の数で、実際に耳で区別するピッチの型は6つです。
残る3つは -p・-t・-k で閉じた音節(入声)にだけ現れ、ピッチは第1声・第3声・第6声と同じです。
粤拼の番号が1から6しかないのはそのためで、「9声だから普通話の倍難しい」というのは誤りです。
もうひとつ、口語では本来の声調が変わって発音される語(變調)があります。
幾多錢 gei2 do1 cin4 の「錢」が高く跳ね上がって聞こえるのがその例で、本記事の表記はすべて本来の声調で書いてあります。
第2段階|口語字と文末助詞
唔・係・嘅・咗・喺・佢・乜・點の8字が、広東語の話し言葉の骨格です。
唔 m4 は否定、係 hai6 は「〜である」、嘅 ge3 は「〜の」、咗 zo2 は完了、喺 hai2 は「〜に」、佢 keoi5 は三人称、乜 mat1 は「何」、點 dim2(ディム)は「どう」にあたります。
ここに啦 laa1(ラー)・㗎 gaa3(ガー)・咩 me1(メー)といった文末助詞が加わって、ようやく会話らしい形になります。
この層は書面語の教科書には出てこないので、意識して別に取りにいく必要があります。
第3段階|場面別のフレーズを積む
語彙は使う頻度の高い順に積むのが効率的で、広東語の場合は礼の言葉が最初に来ます。
唔該 m4 goi1(ンゴーイ)と多謝 do1 ze6 は、日本語の「ありがとう」がひとつで済むところを二つに分けるので、ここで一度つまずく人が多い場所です。
次に挨拶、そして数字と値段が続きます。
店で使う場面としては飲茶 jam2 caa4(ヤムツァー)の注文が実用性が高く、点心紙の読み方と注文の一言を覚えるだけで一気に動けるようになります。
第4段階|香港の実際の音に慣れる
駅のアナウンス、レジで必ず言われる一言、茶餐廳 caa4 caan1 teng1 で飛び交う短い言葉は、教材にはあまり載りません。
たとえば地下鉄の車内放送は、文字にして見れば意味が取れる語でも、音だけだと最初はまったく引っかかりません。
この段階では、聞き取れなかった語をその場で調べる道具の使い方も一緒に身につけると、学習が止まらなくなります。
日本語話者にとって有利な3点
広東語は難しいと言われますが、日本語話者に限れば構造的に有利な部分がはっきりあります。
有利1|漢字の意味がすでに分かる
広東語で使う繁体字は日本語の旧字体に近く、語彙の骨格も漢語です。
時・書・食のように日本の常用漢字と同じ形の字も多く、學・國・會のように旧字体を知っていれば見当がつく字も多いので、読むことに関しては最初から下駄を履いています。
繁体字と日本の字体の対応関係そのものは中国語の漢字と声調の記事にまとめてあります。
有利2|入声が音読みと促音として身体に入っている
中古漢語には -p・-t・-k で終わる音節があり、広東語はこれを子音のまま保存しています。
日本語は閉じたまま発音できなかったので、母音を足して開きました(-k はク/キ、-t はチ/ツ、-p はフ、のちにウ)。
そして複合語で足した母音が落ちると、促音として顔を出します。
| 漢字 | 広東語(粤拼/カタカナ) | 日本語の音読み | 普通話(拼音) |
|---|---|---|---|
| 學 | hok6/ホッ(ク) | ガク(学校=ガッコウ) | xué |
| 日 | jat6/ヤッ(ト) | ニチ(日本=ニッポン) | rì |
| 十 | sap6/サッ(プ) | ジュウ(←ジフ、十分=ジップン) | shí |
| 國 | gwok3/グォッ(ク) | コク(国家=コッカ) | guó |
カタカナの括弧は「その口の形は作るが、開放して母音を足さない」という意味です。
普通話はこの韻尾をすべて失っているので、この手がかりが使えるのは広東語を学ぶときだけです。
音読みから韻尾や声調をどこまで当てられるかは日本語の音読みと広東語の対応の記事で詳しく検証しています。
有利3|文末助詞の感覚が日本語の終助詞に近い
英語話者が最も苦戦するのが、この文末助詞の層です。
日本語話者にとっては「ね・よ・な・ぞ・っけ」の延長として入ってくるので、ここは苦労が少なくて済みます。
難所と、そこにどう手をつけるか
逆に、日本語話者がつまずく場所も音韻レベルで特定できます。
難所1|低い音域に第4声と第6声が固まっている
広東語の6つの声調のうち、低く落ちる第4声と低く平らな第6声は、日本語話者にとって最も紛らわしい対です。
同じ si という音節で6つ全部が別語になるので、この6語を並べて練習するのが定番です。
| 広東語 | 粤拼+カタカナ | 日本語訳 |
|---|---|---|
| 詩 | si1(シー) | 詩 |
| 史 | si2(シー) | 歴史 |
| 試 | si3(シー) | 試す |
| 時 | si4(シー) | 時 |
| 市 | si5(シー) | 市場・都市 |
| 事 | si6(シー) | こと |
カタカナがすべて同じになってしまうことからも、声調をカタカナで代用できないことが分かります。
調値の読み方と練習の手順は声調と粤拼の記事にあります。
難所2|日本語にない母音と、母音のない音節
書 syu1(シュー)・香 hoeng1(ホェーン)・女 neoi5(ノェイ)に出てくる前舌の円唇母音は、日本語に対応する音がありません。
さらに唔 m4 や五 ng5 のように、母音を含まずに鼻音だけで一音節を作る語もあります。
どちらもカタカナでは近似にしかならないので、この2種類だけは音声で確認する必要があります。
口の作り方は日本語話者のための広東語発音の記事で一つずつ扱っています。
難所3|日本語の教材と情報が少ない
入門書・辞書・音声資料の選択肢は、普通話と比べると桁が違うほど少なくなります。
だからこそ「有名だから」で選ばず、条件で選ぶしかありません。
「ベトナム語みたいに聞こえる」という話をどう受け止めるか
広東語を初めて聞いた日本語話者が「ベトナム語みたいだ」と感じることはあり、その理由は音韻的に説明できます。
ただし因果の向きは逆で、広東語がベトナム語に寄ったのではなく、中古漢語の音節の形を両者が別々に保存し、普通話のほうが大きく変わったというのが実態です。
語族も違うので、ベトナム語の知識が広東語の近道になることはなく、日本語話者にとって本当に効くのは前述の漢字と音読みのほうです。
似て聞こえる理由と、実際には何が違うのかは広東語とはどんな言語かを扱った記事で腰を据えて分解しています。
教材とリソースを条件で選ぶ
選択肢が少ないぶん、満たすべき条件を先に決めておくと外しません。
入門書と辞書に求める3条件
条件は3つで、粤拼で発音が書いてあること、漢字が繁体字であること、音声がついていることです。
この3つが揃っていないと、他の教材と綴りが接続しなかったり、字体を読み替える作業が毎回発生したりします。
辞書についても同じで、粤拼で引けること、繁体字で引けること、声調番号が表示されることを見ます。
以下は、この3条件に照らして中身を確認できたものです。優劣ではなく、それぞれが何を持っているかを並べます。
粵典(words.hk)
ブラウザで無料で引けるオンライン広東語辞典で、辞書データの版権は香港辭書有限公司が持っています。
見出し語には声調番号つきの粤拼が付き、表記は繁体字、見出しの横のボタンから発音の録音を再生できます。
口語の語彙や例文も収録されているので、教科書に出てこない語を調べる場面で効きます。
粵語審音配詞字庫(香港中文大学)
香港中文大学の人文電算研究中心が公開している、漢字1字ごとの読みを引くための無料データベースです。
字ごとに読みと詞例(その読みで使う熟語)が並び、録音も付いています。
検索欄は粤拼の声母と韻母を選んで音から引く形式で、表示する注音方式も7種類から選べます。
冚唪唥(Hambaanglaang)
香港のコミュニティが作っている、無料の段階別読み物(グレーデッド・リーダー)です。
全冊に粤拼が付き、本文は書面語ではなく口語の広東語を繁体字で書いてあります。
音声はYouTubeとSoundCloudで無料公開されていて、ライセンスはCC BY 4.0です。
第2段階の口語字を「読んで慣れる」ための材料として使いやすい作りになっています。
Pleco
iOSとAndroid向けの中国語辞書アプリで、広東語の検索と表示に対応しています。
設定で粤拼表示を選ぶと声調が数字か上付き数字で出て、広東語音の音声もあります。
広東語専用の辞書データは追加ダウンロードの形で提供されているので、入れるかどうかは目的次第です。
『ニューエクスプレスプラス 広東語』(飯田真紀、白水社)
日本語で書かれた広東語の入門書で、全20課の会話と文法解説、練習問題という構成です。
音声はCDと音声アプリの両方で提供されています。
発音表記の方式は出版社の紹介ページには明記されていないので、粤拼で統一したい場合は現物か試し読みで確認してから買うのが確実です。
教材ではありませんが、同じ著者の『広東語の世界』(中公新書)は、広東語がどういう位置にある言語なのかを日本語で通して読める本です。
話す相手をどう確保するか
独学の最大の穴は、出力の機会がないことです。
オンラインレッスンで広東語の話者を探すのが現実的な選択肢で、普通話・台湾華語との選び分けはitalkiで中国語を習う記事で触れています。
映像・音楽を教材にするときの注意
香港の映画やカントポップは、音のリズムに慣れる材料としては有効です。
ただし歌詞は書面語寄りに書かれていることも多く、そのまま口語として覚えると噛み合いません。
聞こえた語を辞書で確認する、という一手間を挟むだけで教材になります。
意味が取れないときに道具で埋める
翻訳サービスは「中国語」を選んでも広東語の口語にはならないことが多く、ツールごとに得意不得意がはっきり分かれます。
どのツールが何をできるかは広東語の翻訳ツールを比べた記事にまとめています。
独学でつまずく4つのパターン
先回りして潰しておくと、やり直しの時間を丸ごと節約できます。
カタカナに頼りきる
入声も6つの声調も前舌の円唇母音も、カタカナでは書き分けられません。
粤拼を読めるようにしてからフレーズを増やす、という順番を守ってください。
教科書の文をそのまま話してしまう
書面語のまま口に出すと、意味は通っても不自然な広東語になります。
語彙・語順・文末助詞を口語に置き換える工程が必要で、その対応は口語字の記事に一覧があります。
声調を後回しにする
語彙を先に増やしても、声調が定まっていないと通じません。
第1段階で6つを固めてから語彙に進むほうが、結果的に速く進みます。
普通話の語彙で置き換えてしまう
這個ではなく呢個 ni1 go3(ニーゴー)、他ではなく佢 keoi5(コェイ)、的ではなく嘅 ge3 です。
普通話を学んだ人ほど起きやすい混線で、どこがどう入れ替わるかは広東語と北京語の違いの記事で整理しています。
最初の30日でやること
第0段階から第2段階の入口までを、4週間で通す組み立てです。
| 週 | やること | 読む記事 |
|---|---|---|
| 第1週 | 粤拼の読み方と6つの声調 | 声調と粤拼 |
| 第2週 | 入声と円唇母音、日本語の音読みとの対応 | 発音の練習/音読みとの対応 |
| 第3週 | 礼の言葉・挨拶・数字と値段 | 唔該と多謝/挨拶/数字と値段 |
| 第4週 | 口語字8字と、実際の場面の言い回し | 口語字/香港のフレーズ/飲茶 |
30日の到達点は「通じる発音で、短い用件が言える」ところまでです。
会話が続くかどうかはこの先の話で、ここまでで発音の土台と最低限の場面語彙が揃います。
よくある質問
広東語は独学できますか
発音の初期だけ確認手段を持てば、独学は十分に可能です。
録音つきの辞書を引く習慣をつけるか、最初の数週間だけレッスンを入れて音を直してもらうのが現実的です。
普通話と広東語はどちらを先に学ぶべきですか
目的で決まります。
読む力は互いに転用が効きますが、話す力は別物なので、香港で人と話したいなら遠回りせず広東語から入るほうが早く着きます。
広東語ができれば台湾でも通じますか
繁体字を使う点は共通ですが、台湾の話し言葉は台湾華語(普通話系)なので、広東語では通じません。
台湾向けの文章の書き方は台湾向け中国語ビジネスメールの記事で扱っています。
広東語の検定試験はありますか
日本国内で定期的に実施されている広東語の検定試験は、本記事の調査では確認できませんでした。
存在しないと断定はできないので、資格が必要な事情がある場合は主催団体の最新情報を直接確認してください。
どのくらいで話せるようになりますか
期間は学習時間と目標の高さで変わるため、断定はできません。
目安として、上の30日プランを通すと「通じる発音で短い用件が言える」ところまでは届きます。
まとめ
順路は、粤拼から六調、口語字、場面別フレーズの順です。
日本語話者は漢字と入声で有利な位置にいて、難所は低い音域の声調と前舌の円唇母音に集中しています。
「ベトナム語に似ている」は音の表面の話で、学習の近道になるのは日本語の音読みの知識のほうです。
普通話をすでに学んだ人が何を捨てて何を持ち込めるかは、広東語と北京語の違いの記事から確認してください。


